ゴールドコラム Gold Column

中世ヨーロッパの
金(ゴールド)と装飾品のお話<前期>

4世紀末、ローマ帝国は東西に分裂しました。
東ローマ帝国は西アジアの文化を取り入れ大きく発展。
一方西ローマ帝国はゲルマン人の侵攻により、5世紀に入るころには滅亡してしまいます。
こうして大きく2つに分かれたヨーロッパの金(ゴールド)や装飾品にはどのような歴史があるのでしょうか。

2つのヨーロッパ

東ローマ帝国の方は西ローマ帝国が滅亡した後も、東地中海や、東方(アジア)との交易も盛んで、
経済的にもゆとりがあり、金(ゴールド)の蓄えも十分にありました。
このように東ローマが栄えた時期は長いこと続いていましたが、1096年に始まった十字軍遠征を境に、
徐々に状況は悪化し、1453年についに帝国は滅んでしまうのでした。

そもそもヨーロッパでは銀鉱脈はところどころにあったものの、金の生産はほとんどありませんでした。
そのため、金は他国に頼ることが多く、その中でも西アフリカの存在は大きかったようです。

そして14世紀頃の西ヨーロッパにおいては、イタリア商人は北アフリカの港で
サハラを越えてきた西アフリカの金(ゴールド)を求めて交易をし、
12世紀に建国され大航海時代に入るポルトガルは、航路を開拓し、直接海から西アフリカの黄金を得ていたのです。

中世前期の装飾品

古代ペルシアなどの西アジアの影響を受けた東ローマ帝国と、ゲルマン民族の影響を受けた西ヨーロッパの装飾品。
それぞれどういったものがあったのでしょうか。

“東ローマ帝国(ビザンチン帝国)では、国教であるキリスト教の観点から肉体を嫌悪していた。
そこで、服装が体をぴったりと覆ったものになっていく。
装飾品もそのような服装にあったものが好まれるようになり、
覆いきれなかった袖口や首周り、頭部を飾る装飾品、
つまり頭飾りや首飾り、腕輪、指輪などが発展する。
…(中略)…
情勢の安定しない西ヨーロッパでは、王冠を除いては、
ベルトのバックルやブローチなどの実用品が好まれた。”

(引用:図解 装飾品  新紀元社)

実用品とはいっても、凝ったつくりにして装飾品としての意味も持たせたとのこと。
また、素材としてはいずれの地域でも金(ゴールド)は多く使われたようですが、
庶民の間では、例えばおしゃれ用の指輪として、金メッキを施した青銅や鉄の指輪に色ガラスをはめ込んだ
安価なものが主流だったようです。

こういった工夫が、現代のおしゃれにつながるのでしょうね。

参照文献
『黄金の世界史』/講談社
『図解 装飾品』/新紀元社

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